たかしの最高!のブログ。

上から読んでも下から読んでも「しかたないなたかし」

不確実性に耐えたい

英語は学ぶ価値があると思う。

世界の情報にアクセスしやすくなるし、海外の人の話を直接聞きやすくなる。

価値があるから頑張りたい。

それが好きだったらいいなと思う。

 

ぼくはあんまり勉強は嫌いじゃないと思っていた。

覚えることはそれなりにできる自覚はある。

が、それを取り出すスピードが遅い。

かつ、それをトリガーがない状態で引っ張り出すのが苦手なように感じる。

トリガーは主に文章として読むことだ。

文章を読むのもぼくはそんなに早くない。

 

トリガーもそうだが、必要性の問題もある気がする。

テストのためにざっくり覚えて点数は取れる。

けどそれがあくまでそのテストのためだけのものになってしまう。

終わったら消えていく。

資格はあるけどただそれだけ。

 

こう思ったのは英語に取り組むようになってからだ。

例えば文法学習。

読めば分かるし、時間をかければ問題も解ける。

だけど英会話やリスニングはそうはいかない。

相手はどんどん話すし、音声は聞き取れてるかどうかに関わらず進んでいってしまう。

思い出すトリガーになる文章もない。

ぼくのペースでは進められない。

 

ぼくが苦手にしてることをまさに体現している。

不確実性が高いのだ。

だから負荷も強く感じる。

というわけであんまり語学学習については素直に好きとは言えない感じがしている。

 

けど英語を使えたらかっこいいし、便利なのも海外に行って身をもって知っている。

だからできるようにはなりたい。

 

不確実性に慣れていきたい。

そして不確実性を減らせるように自分の力も付けたい。

 

好みと適性のバランスを取りつつ身に着けることの難しさを感じつつ、少しずつでも成果を出せないかともがいているところだ。

 

 

 

 

 

エスワティニの踊り

親友とアフリカ南部の旅行に行ったとき、エスワティニに立ち寄った。

南アフリカに囲われている小さな国だ。

文化体験村で、伝統舞踊をみた。

男性も女性も身体能力がすごかった。

足を瞬時に上げ、つま先を何度も何度も額に当てては下ろしていた。

なんであんなに体が動くんだろう。

体力が続くんだろう。

 

確かにぼくも一生懸命練習したらできるかもしれないが、もともとの身体能力の高さを感じずにはいられなかった。

 

親友は感動した、面白かったと言っていた。

すごさは感じたけど、感動や面白さはあまり感じられなかった。

何なら途中から少し飽き始めてしまってる自分もいた。

 

彼は何に感動したんだろう。

聞いてみたけどはっきり言葉にはならないようだった。

ぼくもその時は、全然違う感覚なんだなくらいにしか思わなかった。

 

今振り返っていてちょっと考えてみた。

身体能力を文化として形作っていたことだろうか。

確かに大変な運動を民族として残していることは、感動に値してよさそうだ。

でもこれは僕の感覚でしかない。

もう少し色んな角度から見れるようになりたい。

 

考えが浅いと思われるのはいやなので少し調べてみた。

踊りは集団をまとめ上げ、王を中心とする社会の一体感を生み出していた。

それがエスワティニの王権の確認・維持にも寄与してきた。

まだ浅いとは思うが、ざっくりこんな感じのようだ。

 

ちょっと難しいけど、調べてみると面白くなくはない。

集団をまとめることに踊りがうまく機能していた。

それが王のもとだった結果、王と踊りがつながっていったということなのだろうか。

 

友人は何を考えていたんだろう。

そんな踊りの歴史や背景を考えていたのだろうか。

彼が何に感動したのか、それを言葉にしてくれたらいいのに。

けど、感動を言葉にしようとすること自体が野暮なんじゃないかとも思えてきた。

 

一部を動画に残していたので、見返してみた。

エスワティニの人たちの歌声が少し心地よく感じた。

記事が50本集まった

今年の6月ごろからブログを書く頻度を増やした。

8月は旅行でほとんど書けなかったが、なんだかんだ50本に到達していた。

 

書いていて思ったことは、書くこと自体はそんなに苦ではなさそうということだ。

日々気づいたことを題材に、調べたことや思いついたことを書いていたように思う。

それを記録すること自体が面白いと思ったし、何か糧になればいいなと思っていた。

 

ただ最近思うのは、一本書くのに結構時間がかかってしまっているということだ。

毎日書いていたからなおそれを感じた。

他にもやることはあるし、その塩梅が難しい。

 

だから、ブログについてもいろいろ試しながら使っていければと思う。

頻度だったり、記事の内容だったり。

 

50本書いてみてなんとなく感じたのは、

自然に書いていても、勝手に自分の癖が出てきてしまうものなのだなということだ。

考え方とか、書き方の癖とか、感じることとか。

 

食材とか、割と日常の小さなことを拾って書いてるなーとか。

結構差とか違い、欠けてる部分に敏感なのかなーとか。

自分にどう生かせるか考えてることが多いなーとか。

何回も同じようなこと繰り返して書きがちだよなーとか。

発想が飛んじゃってることが多いよなーとか。

不確実性に対して苦手意識を感じてそうだなーとか。

考えたことをもっと効率よく行動につなげられたらなーとか。

行動しても結果につなげられてる実感がまだ薄いよなーとか。

 

積みあがってきたことで、それが分かるのが面白かった。

 

とりあえず毎日じゃなくても、書きたいときに書きたいことを気ままに書けたらいいなと思う。読んでくれる人がいるのがとても嬉しいし、自分のための記録としてだけではなく、読みたいと思ってもらえるように書けたらいいなとも思っている。

 

 

 

住むってなんだ?

親友は海外旅行は1か月半が最大かなって言っていた。

それ以降は好奇心が薄まってくるらしい。

飽きもでてくるのだろう。

 

人によって最適な期間は違うと思う。

だが旅行と住むこととの境が気になった。

 

何がそれらを分けるのだろう。

親友の言う1カ月半ぐらいの期間なのだろうか。

けど、それを超えたら単純に住むことになるということには違和感を覚える。

期間が旅行と住むこととの境になるとは言えない気がする。

 

一時的なものが旅行なのだろうか。

一時的ってなんだろう。

期間が定まっていることだろうか。

 

5年間の旅行。

世界を飛び回ってたらなんかわかる気はする。

けど、同じところにいたら住んでいそうだ。

 

同じところにいることが住むことに近いのかもしれない。

けど、そうじゃないとも思う。

 

南アフリカへの旅行で、まるで自宅のようなホテルに泊まった。

キッチンや洗濯機、食器まで全部整っていた。

 

洗濯機を回して干す。

車で近くの現地のスーパーへ行く。

物価を確認して、いいと思った食材を買う。

そしてそれをホテルに戻って料理する。

そして食器に盛ってそれを食べる。

食器を洗って元に戻す。

 

たった一日の出来事だったけど、感覚的には住んでいた。

そこに暮らしているようだった。

けど、外からみたら旅行の一部だ。

 

旅の中の暮らしは、あくまで旅。

だけど暮らしの中で旅をしても、それはやっぱり旅な気がする。

暮らしと旅は切り分けられそうな感覚がある。

 

旅には暮らしという戻る場所がある。

一方、暮らしは帰る場所が暮らしの場になりそうだ。

 

自分が帰る場所を定め、そこで実際に暮らしを連続させていく。

住所を定めておくことも大切かもしれない。

自分がそこで暮らしを営んでいる事実を、客観的にも認知できるようにする。

住むってこんな感じだろうか?

 

自分の考えが正しいのかわからない。

ぜひ意見を聞いてみたい。

住むってなんなんだろう。

 

 

生玉ねぎは結構タチが悪いと思う

生玉ねぎは結構タチが悪いと思う。

結構一般的なトッピング食材としての住民権を得ている気がする。

 

例えばマック。

ハンバーガーにみじん切りの玉ねぎが入ってる。

確かに美味しい。

けど後味が玉ねぎすぎる。

あれは生玉ねぎだからなせる業だと思う。

結構強烈。

臭くないみたいな顔してるけど結構臭い。

 

一方でにんにくは臭いキャラで通ってるように感じる。

だから火が通ってても入れるか確認されたりする。

生にんにくは基本自動的には入ってこない。

ラーメン屋とかで、オプションとして自分好みに入れられる感じになってるイメージ。

 

あの差はなんなんだろう。

生玉ねぎ、生にんにくに負けず劣らず臭いと思う。

それに何回もぼくのことを泣かせている。

 

ああやっぱり生玉ねぎはタチが悪い。

でも美味しいからなんとなく憎みきれないぼくがいる。

 

 

バナナが強すぎる

輸入品だけど安い。

海外の納豆は高いのに。

 

調べてみた。

簡単にまとめてみると、こんな感じらしい。

 

大量生産が可能で、需要があり、大量消費されること。

また痛みづらく、船で大量に輸送可能なこと。

また熟す前に運び始められて、輸送中に熟成もできること。

そしてそれらの特徴から物流が最適化されていったこと。

 

バナナは国際貿易に向きすぎていた食材らしい。

 

つまり輸入品だから高くなる、という単純な構造ではないということだ。

ブルーベリーは収穫の手間と、傷みやすい。

納豆は、大豆の発酵工場が日本が中心のため、そこで作ってから運ぶ必要がでてくる。

 

バナナは熟す前に運べて、かつ丈夫。

追熟のスピードも調整でき、運ぶ時間もバナナという商品の製造過程になってくる。

それに食べたら美味しいし栄養もある。

皮をむくのも簡単で、手だけで食べれる。

バナナが強すぎる。

そして物流を最適化した先人たちも凄すぎる。

 

ああ、いろんな食材がバナナみたいになればいいのに。

 

 

クラクションと意思

クラクションを耳にすることがある。

ぼくはびっくりするのであの音が嫌いだ。

いろんなケースが考えられるが、

たいていは怒っている人が強く鳴らしている印象がある。

 

一方でお礼や譲る合図にもなったりする。

また、あまりクラクションは鳴らない国と、よく鳴っている国が分かれるイメージだ。

環境や頻度によっても、その音が発する意味合いが変わってくる。

 

クラクションはただの音だ。

だけど、状況や鳴らし方で意図が伝わる。

 

空気を読むとはこういうことなのだろうか。

 

動物は鳴き声でコミュニケーションをとっている。

人間に声をかけられても何を言われてるか分からないはずだ。

その場の状況から、何を意味しているのかを感じ取っていたりする。

彼らも空気を読んでいるのかもしれない。

 

ぼくらには言語がある。

状況や声の出し方以上に、表情や言葉の使い分けで多様な表現ができる。

 

それは人の素晴らしさの一つだと思う。

でも言語そのものはAIも使いこなせる時代になった。

表情もフィジカルAIで代替可能になるかもしれない。

 

でも、そこに生の感情をのせられるのは人間らしさの一つだ。

しかし感情に乗せられるのは必ずしもいい結果になるとは限らない。

 

感情を制御すると機械的に合理性だけで動ける人間になれるかもしれない。

けど、人間性の出し方が難しそうだ。

 

感情が最も輝くところはどこだろう。

欲や愛かもしれない。

本能的に人を動かす力があるからだ。

 

そういう意味で本能は偉大だ。

けど、理性なくして社会は成り立たない。

 

本能だけで動きそうになる自分。

理性だけで動きそうになる自分。

どっちの自分にもクラクションを鳴らしたい。